ども。
當山の歴史は、大変古く、今現在、浜松市内に残る一番古いお寺と云われてます。往古は西暦680年頃「お薬師様」が遠州灘で漁師が金色に光る場所に網をかけた所、網に掛り御堂に祀られたことを起源とされてます。大宝三年(703年)文武天皇の夢告により、圓空上人に行脚させ、遠州地方にそんな話があったとうことを上奏し、建立したのが當山の開創のおはなしです。文武天皇の「勅願寺」で圓空上人が建立し、脈々と現在に受け継がれてきました。浜松市の最古刹です。
また、貞観五年(863年)清和天皇より遠江国の「定額寺」に列せられました。定額とは、国家に一定数に限った寺とし、国分寺や国分尼寺に次ぐ位をいただいたとされます。また、今の松下屋敷の所に郡衙があったというお話もあります。郡衙とは国府の出先機関です。
詳細は年表を御覧下さい。
室町時代の南北朝時代は、僧兵を抱え、頭陀寺城がそのときにもうあったというお話もあり、頭陀寺城は、この辺りでは珍しい北朝側というお話もあります。
また、学僧も多く高野山応永の大成を作った宥快僧正の十大弟子の一人が當山の住職をしていた時期もありました。當山の住職も都からきて、當山の住職をし、都へ戻り大寺の要職に就くという出世の中継地点でもあったようです。その当時から出世の寺であり、今の「出世の街、浜松」の期限かもしれません。浜松と言えば大出世。(笑)
戦国時代は、この辺りの法度等は今川公から當山を経由し発せれていた重要な地と磯田道史先生がおっしゃられてました。また、修験者(山伏)が今の馬込町に当たりにあり、當山の塔頭も修験者が多く、塔頭の櫻本坊が今の本郷町辺りにあり結びついており、全国の情報が集まっていたとされてます。その先達の子孫が今も當山の檀家さんでいます。
詳細は、年表にて。
松下家は、寺侍とも言われてます。
頭陀寺城(松下屋敷)には、豊臣秀吉公が3年間仕え、徳川家康公が来遊し、井伊直政公が養子に入るという、凄い地であり、皆幼少期に来ておる「養育の里 頭陀寺」が生まれる起源となりました。松下家は、加兵衛之綱の姉は雄踏町の中村屋敷に嫁いでおり、秀吉が嫁入り道具を持って行ったという伝説も。また、夏目吉信にも嫁いでおり、その子孫に文豪の夏目漱石が、また、之綱の娘(おりん)が柳生家にも嫁ぎ柳生十兵衛を産んでます。また、賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明の娘が嫁ぎ、土佐の山内康豊の養子にもなってます。松下家を研究されていた「冨永公文」先生の著書に詳しく書かれております。残念ながら昨年十月ににお亡くなりになりました。こういうお話も語り継ぐのが大切です。紙芝居になっており「頭陀寺城(松下屋敷跡)を語る会」が製作しましたので、是非ご覧ください。
今川公の庇護を受け、天下を取った豊太閤・東照公により寺領を賜っております。詳細は年表で。
明治時代初期は、神仏分離令により、當山は多大な被害を被りました。
当寺の住職、寺島真應は鳳来寺から當山に転住し伽藍を復興させました。そして、高野山の塔頭へ転住、最後は京都の醍醐寺へ明治になって、初代管長となりました。
太平洋戦争でも莫大な被害を被りました。唯一、残ったのは東照公寄進の「難除大師」像だけです。B29の空襲と艦砲射撃を受けながらも傷一つ残ってません。後日、お話します。
今現在残る、浜松最古刹の寺として、将来に残し、檀信徒の皆様が世界に誇れる、寺として、住職・総代一同・世話人一同・副住職・寺族が頑張っております。
本日は、戦前の写真が絵葉書として残ってますので、お送りします
よろしくお願いします。皆様の御協力があってこそです。