高野山真言宗 難除大師浜松最古の寺 頭陀寺

三公との関り

豊臣秀吉公・徳川家康公・井伊直政公と
頭陀寺の関りをご紹介。

浜松時代の少年豊臣秀吉公[14才]

秀吉公は1551(天文20)年14~16才までの3年間をここ頭陀寺城(松下屋敷)ですごした。
ふるさとの尾張国(名古屋市中村区)から針を売りながら、この地にきて、豪族・松下嘉兵衛に見いだされ、その家来となった。
頭陀寺は秀吉公が初めて武家への仕官(就職)をかなえた地である。
「太閤素性記」によれば、ここでの秀吉公は、よく働き、よく学び、「主人の心にかなわぬことがなかった」という。
いまも頭陀寺地区の天白神社脇には、秀吉公が鎌砥ぎ、手裏剣の稽古をした伝説をのこす「鎌研ぎ池」がある。
その後、秀吉公は尾張国へ戻って織田信長公に仕え、武将として出世し、天下人にまでなった。

竹千代時代の徳川家康公

家康公は竹千代とよばれた幼いころに中村屋敷(雄踏町)から馬に乗ってこの頭陀寺城「松下屋敷」を訪れた、
と當山の住職に言い伝えられている。
また永禄11年(1568)12月、家康公が遠江国に攻め入った時、頭陀寺の松下一族は、いちはやく家康公に味方した。
このとき、家康公はまず橋羽村(天竜川町)の妙恩寺を本陣としたが、安間村から頭陀寺にかけても陣取りをした。
「武徳編年集成」には「十八日、神君(家康公)…頭陀寺ニ張陣シ給フ」と記されている。
ここを足がかりに、家康公は引間城(元城町)を手に入れようと、
松下与右衛門等を使いにたてて城の明け渡しをせまったが、応じなかったため、これを攻め落として入城。
引間城を「浜松城」と名づけ、以後17年間住んだ。浜松時代の家康公は、苦労から多くを学びとった。
武田信玄公と戦った三方ヶ原合戦では生涯最大の敗北を経験したが、この失敗から多くを学び、天下統一をなしとげた。

松下家の養子となった頃の井伊直政公[14才]

この地は井伊直政公(虎松)ゆかりの地である。直政公は幼くして戦乱で父をうしなった。
母は直政公を守るため、ここ頭陀寺城(松下屋敷)から出た松下源太郎清景と再婚。直政公は松下姓を名乗った。
松下一族は修験(山伏)とつながりが深く、徳川家の隠密も出した。
直政公は鳳来寺(愛知県)やこの地で武士のたしなみを学び、
1575(天正3)年、15才で大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公・(井伊)次郎法師の計らいで、
徳川家康公にお目見えし、側につかえる小姓となった。
翌年、直政公は武田家の忍びに襲われた家康公の危急を救い、井伊谷に三千石を与えられ、井伊家再興を果たした。
その後も、家康公最愛の家臣として天下取りを手伝い、譜代大名では日本最大の18万石の城主となった。

撰文 史学博士 磯田道史