頭陀寺寺歴HISTORY
- 飛鳥
- 六八〇
遠州灘に金色に光っている所に漁師が網を掛けたところ、本尊様が引き揚げられる
- 奈良
- 大宝三年七〇三
圓空上人の創建 勅願寺
人皇四十二代文武天皇により奏上
天皇に霊夢あり 仏閣創す
(浜松城廊の西北・平間敷地の陣跡?)
文武天皇御宸書の額字『青林山』を賜う
寺号『頭陀寺』という。
華厳宗。東大寺(国分寺・国分尼寺)の末寺として創建
- 平安
- 貞観五年八月八六三
清和天皇により『定額』を賜う(定額寺に列する)
「日本三代実録」 三代実録 巻七 「貞観五年七月二日、以遠江国頭陀寺預於定額」 - 貞観七年八六五
遠江国長下郡の水田十二町を貞観寺領とする(高家庄として成立)「日本三代実録」
- 貞観十七年八六五
般若経転読「日本紀略」
- 寛平五年八九三
般若経転読「日本紀略」
- 康保三年九六六
般若経転読「日本紀略」
- 長保二年一〇〇〇
一条天皇御宇。仏閣・僧坊を今の位置に遷移?
- 萬壽三年一〇二六
般若経転読「日本紀略」
- 久安三年一一四七
仁和寺観音院末寺(平安末期頃仁和寺末寺であろう)「静岡県史」
高野山の大僧供料米百石のうち遠江頭陀寺に三十石を割り当てる「高野山文書」 - 嘉応三年一一七一
豊田郡内に池田庄が成立する。庄域の西は長田・長上両郡境。南西牓示の一つが川勾荘の境、西脇牓示の一つが川勾荘と蒲御厨との境に打たれた。池田荘と川勾荘の境は紛争となった。「仁和寺観音院末寺(後、高野山寶性院末)頭陀寺領川勾荘」との間で高木(現磐田市竜洋町高木・宮本付近以南か)をめぐって相論が続く。「遠江国池田荘立券状」
- 鎌倉
- 建久三年一一九二
高野山金剛壽院仏供とした頭陀寺荘について、仁和寺門跡が鎌倉幕府に惣検校職である安田義貞を改定するように督促する
頭陀寺庄がしられたのである。源平の争乱を経ても現在の浜松市域穏然たる勢力を保持し続けていることがわかる。尚、頭陀寺庄は頭陀寺を中心とした地域の荘園とされているが、川勾荘の別称、または一部であると考えられる。頭陀寺庄が京都仁和寺より故御室(覚法法親王)遺骨を安置する高野山金剛壽院に割分されることが分かる。これが背景となり鎌倉以降、頭陀寺は高野山末になる。「仁和寺文書」 - 建仁三年一二〇三
頭陀寺庄の運上物への御幸渡船料賦課が禁止される。「紀伊国司宣(高野山文書)」
- 室町(南北朝)
- 元弘三年一三三三
衆徒募兵三百五十人位(綸旨)
- 文明八年一四七六
遠州河曲庄頭陀寺の土倉に預け置いた十貫文を返却するように幕府から奉書が出される「政所賦銘引付」
- 室町(南北朝)
- 大永五年一五二五
遠江国の白山先達職が頭陀寺千手院に安堵される。但、浜松荘のうち川西分(馬込川以西か)は二諦坊を先達とする「朝比奈時茂・福島盛広連署奉書」「頭陀寺文書」
- 大永八年八月一五二八
今川廣綱、当寺の所領を復して、新たに寄附の荘田とする
- 享禄元年一五二八
川勾荘平間の田地が頭陀寺千手院・長楽坊に寄進復旧される「頭陀寺文書」
- 享禄三年一五三〇
遠江国の白山先達職が、河西分を除き頭陀寺千手院に安堵される「頭陀寺文書」
- 天文八年一五三九
今川義元、寺領坊職等の制を定め、及び寺中の榜令を下附あり
- 天文十四年一五四五
禁制を掲げ境内に於ける違法行為を禁ずる
- 天文二十年一五五一
少年時代の豊太閤(豊臣秀吉公)が遠州頭陀寺の松下加兵衛に仕え(三年間)、曳馬城主 飯尾豊前守(乗連)に面会した「太閤素生記」
- 永禄三年一五六〇
今川氏真、従来の寺領に七貫文加え安堵
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東照公 竹千代時代に、中村屋敷(現 雄踏町)から馬に乗り頭陀寺城迄(松下屋敷迄)遊びに来ていたと歴代の住職に伝わっている。
- 永禄七年一五六四
僧坊十二宇、悉く兵火により灰燼。宗徒も離反す。
独り千手院日瑜、伽藍を保護す。更に今川氏真公百六十貫文の荘を寄す(判物有り) - 永禄十一年一五六四
連歌師の里村紹巴が富士見の帰り道旧友と会う為、当寺に一泊。紹巴が日瑜の素性について都築宗左衛門の舎弟と書き残す「紹巴富士見道記」東照公(徳川家康公)が遠江侵攻するにあたり、旧今川家から多数の内通者が出る。その中に頭陀寺松下嘉兵衛之綱がみえる
侵攻する際、当寺と妙恩寺(現天竜川町・日蓮宗)と共に陣を張る - 天正四年一五七六
織田・武田諸氏兵、寺門に乱入し放火狼藉す
院主日瑜及び貞盛・真盛・圓真等、本尊・その他十二の寶器を守護し、僅かに灰燼を免れる
- 安土桃山
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東照公、当寺に詣し遺址を見て、慨歎せられ七十貫文を賜り、本尊供養に充てる「東海展望」・等
- 天正十八年一五九〇
豊太閤頭陀寺領高二百石(朱印状)寺中禁制書を下し賜う(判物)頭陀寺に対し河輪荘恩地町前廻り(西恩地村・現都盛町か)と市場(頭陀寺町か)の寺領二百石「豊臣秀吉朱印状」
- 慶長六年二月一六〇一
東照公・坊中屋敷二千五百坪・末寺櫻本坊領高二石を賜う(朱印状)
- 江戸
- 慶長八年九月一六〇三
東照公、寺領二百石の荘田を賜う。以後歴代将軍から朱印状を賜う
- 慶長十年一六〇五
以還、仏閣僧舎を再営
- 元和元年一六一五
寺観旧に復す
- 延寶年間一六七〇年代
祝融の災有り。堂塔総て島有に帰す。唯本堂のみ、災いを免れる
- 延寶六年一六七八
「青山御領分絵図」薬師堂・鐘楼・仁王門・千手院の他塔頭と思われる建築物の焼失前が描かれている
- 寛永七年一七一〇
十一ヶ坊の建物が林立する伽藍を誇った「東海道名所図会」「遠淡会地志」
院主意傳之を改造す
一山僧舎・院主・寺中併せて十一宇有り(千手院・實相院・・・中之坊)
四十六所明神(現 津毛利神社 参野町)の燈籠を寄附す。代々神主(修験道による)も兼ねていた為。 - 寛政九年一七九七
幕府、累世寺領二百石寄附「東海道名所図会」
- 嘉永七年一八五四
震災に遭う
- 明治
- 明治三年一八七〇
廃仏毀釈により甚大な被害となる
- 明治四年一八七一
社寺一般土地の内三千三百十一坪の地を割き、併せて之を奉還す
- 明治五年一八七二
神仏分離令により、熊野神社(現在地)・白山神社(恩地町)を現在地に遷座す。熊野神社の現在の宮殿は、本堂の本尊様の宮殿を現在使用する
- 明治九年一八七六
千手院を改称し、頭陀寺となす。
- 明治十一年二月一八七八
住職 寺島真應、寺宇を再建
- 明治三十五年一九〇二
稲荷堂が、松下屋敷より境内に遷座し、當山の鎮守となる
- 大正
- 大正年間ーーー
戦前の境内の写真が絵葉書で残る。
- 昭和
- 昭和二十年一九四五
太平洋戦争にて全て焼失。宝物・仏像仏画等、焼失紛失に遭う
四月末 頭陀寺付近、爆撃を受く
五月十九日 村一円爆弾投下
七月末 遠州灘の米艦、艦砲射撃 - 昭和二十九年一九五四
頭陀寺幼稚園を境内東側に設立
- 昭和四十八年一九七三
住職 鈴木章介、寺宇を再建(仮本堂・大師堂兼位牌堂)
- 昭和五十三年一九七八
本堂落慶
- 昭和五十八年一九八三
山門落慶
頭陀寺幼稚園が学校法人となり、頭陀寺学園頭陀寺幼稚園となる - 昭和六十一年一九八六
戦時中に供出された半鐘が、四十四年ぶりに新潟県で発見され、新潟県北蒲原郡中條町 馬場恭一氏より返還される
復興記念法要
- 平成
- 平成二年一九九〇
位牌堂増築工事
- 平成十年一九九八
稲荷堂解体・新築工事
- 平成十一年一九九九
水屋の解体・新築
- 平成十三年二〇〇一
墓地改修工事
頭陀寺幼稚園が恩地町に全面移転(ずだじ幼稚園とす)する - 平成十四年二〇〇三
頭陀寺幼稚園開園五十周年
- 平成十九年二〇〇七
本尊祭開始(現 薬師大祭)
- 平成二十年二〇〇八
境内・参道改修工事
- 平成二十二年二〇一〇
役行者堂・供養塚 建立・整備
- 平成二十五年二〇一三
馬頭観音堂 建立
- 平成二十六年二〇一四
本堂北側 参道整備立
- 平成二十七年二〇一五
ずだじ幼稚園 から ずだじこども園 に移行
- 平成二十八年二〇一六
浜松市歴史遺跡(頭陀寺城址・松下屋敷跡・頭陀寺)
翌年の大河ドラマ放送に伴い客殿に「歴史資料室」を十月に開館
社会福祉法人青林福祉会そらいろ保育園開園(市野町) - 平成二十九年二〇一七
三公像(豊臣秀吉公・徳川家康公・井伊直政公幼少期)の銅像 落成除幕式
浜松市認定文化財 五 点認定
学校法人頭陀寺学園若林こどもの園 開園(若林町)
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祈祷(きとう)kitou
祈祷とは神仏に祈りをささげ国家の安泰、人々の利益、
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個人の幸福を祈り完成するよう拝みます。 - 供養(くよう)kuyou
諸仏、諸菩薩を敬うため、亡き人を敬うために
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水(閼伽)、香、花、食物、燈明をお供えします。 -
葬儀(そうぎ)sougi
出家した人に宗派の奥義を授けて、亡き人を仏道の
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正しい道に引き入れる儀式を行います。 -
境内図(けいだいず)keidaizu
頭陀寺の境内をご紹介。
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ご覧くださいませ。